じゃあそうしましょうよ

人に読まれる前提の言葉

晴れたらやりたいこと

今週のお題「晴れたらやりたいこと」

 

そら洗濯。梅雨時は雨と雨の間隙を突いて洗濯する日を伺っている。晴れるまで待ってるとそのうち着られる服もなくなったりするので、曇りくらいなら強引に洗濯して風に当ててあとは部屋干ししたり。

それから散歩。でもこの時期の晴れ間は刺すような日の光なので、散歩には向いてないかな。河原をぐんぐん山に向かって歩いてみたいけれど。

床拭きは気持ちいいかな。窓拭きも。

昔の私よありがとう

先月、日本近代文学館で催された「声のライブラリー」で平田俊子さん、川上未映子さん、司会の伊藤比呂美さんのイベントに参加した。

平田さんの「か」の朗読への入り方は驚いた。今から朗読しますといった構えからではなく、雑談をしながらすっと入っていったのだった。

読み方もあるのだろうか、平田さんの声と共に言葉がすんなりと入ってくる。最初に聞く人間の構えを取っ払ったからだろう。すっかり夢中になった。

川上さんの朗読は「水瓶」で、これは同じ言葉を重ねて重ねてくる迫力が、川上さんの声と共にどんどんこちらへ迫ってくる。何度も読んだことのある詩が、音声化されると(書かれた御本人ということもあると思うが)伝達量がぐんと増えるのだと実感した。

休憩を挟んでお二人の朗読に触発された伊藤さんも御自身の詩を朗読された。その後で三人でのお話は非常に楽しく刺激的なものだった。川上さんが「フィネガンズ・ウェイク」の書名を出していたので図書館で借りて読んでみたり。

理解することと面白さとはイコールではないのだなと、気付かされた。

思えば、初めて夢の遊眠社を観た時も、何が何だかわからないけれど面白かったのだった。わかること、理解することに重きを置きすぎていたように思う。ただ文字を、言葉を読む、目に入れるだけで、言葉の間を回遊するように楽しむ、そんな読書もあっていいのだと。

去年、取っていた東京新聞平田俊子さんのインタビューがあったのを思い出した。去年の私はそれを切り取ってスクラップしていた。読み返すと三角みづ紀さんや文月悠光さんの記事も取っていた。ありがとう去年の私でかしたぜ。

今日の予報は雨であったのに、夕方には雲の切れ間から青空がのぞいている。

沼沼沼

今週のお題「私の沼」

 

私の沼 近藤真彦 ガンダム 小劇場 V6

ですな。

当時は「沼」という言葉を当てはめるのではなく、「夢中になる」。から「ハマる」だったと思う。「沼」には「出られない」という意味が含まれているように思っていた。

今手元にある広辞苑第六版では「湖の小さくて浅いもの」とされている。多分「ヌマ」というねとねとした語感が「はまるとぬけられない」実感を伴って使われるようになったのだろう。

だが「沼」にはまり続けるには強い足腰が必要で、私はそれを失いつつある。加齢と共に。「沼」にはまっても生き続けるためには、顔を出しておかなくてはならないしね。沈むと死んでしまうのよ。

品川と羽田

東京に来てから、よく行く場所。関西にいた頃はエキュートの場所がわからなくて往生しました。スタバが見えているのに行き方がわからなかったり。関西から乗るとなんとなく東京駅まで行ってしまうので縁遠かった。京急と山手線、京浜東北線東海道線もイマイチピンとこなかったな。

羽田空港は夜がよい。リムジンで来ると、夜景が素敵なのです。

代行

チケット詐欺に合った十代の女の子のブログを読んだ。まず「代行」を見ず知らずの人に頼むのがびっくり。「代行」って当たり前でよく行われていることのようだ。

自分に子供がいたら多分十代の頃だろうし、自分の子供が「代行」をSNS等で募ったりしていたら少なからずショックだろうな。

スマホの普及で中高生からネットを使うことが当たり前の世代で、一方使い方を誤ると意図しない犯罪等に巻き込まれる可能性もすぐそこにあるのだ。なしくずしにネットが生活に入り込んできた弊害だろう。

教育の現場で教えることや疑似体験等で注意喚起することは出来るのだろうか。家庭でも学校でも限界がある。

今の十代はサバイバー世代なのだな。上の世代が作り出したものに振り回されるのではなく、私たちが考えもしなかった使い方を発明してほしい。

乗り切っていって。

おやつ

今週のお題「おやつ」

おやつが主になることが多い昨今。おやつを美味しく食べるために御飯を食べることも、ある。

美味しいものをちょっとだけ食べる、贅沢。

初仙台

初仙台。落ち着いた街並み。お天気だけれど、風が冷たい。東京からだと1時間半でこれるのでいいな。関東に引っ越してきて東北が近くなったのは嬉しい。山形や秋田、岩手行きたいなー岩手。